昭和41年03月08日 朝の御理解



 昨日、毎日私はあの散歩をさせて頂きますけれども、昨日遅うから夜の御祈念のちょっと前の時間を利用しましてから、丁度善導寺の手前まで往復歩かせて頂いた。本当にあの、道をあるかせて思う事でございますけれども、昔は怖いものというたら、地震、雷、火事、親父といったそうですけれども、最近その怖い交通事故ということが一つ、怖いことの中に加えられたというが、成程そうだと思いますね。
 もう油断も隙も出来ませんですね。たったこれから飯田までの往復をさせて頂きますのに、もうどれだけの自動車にあいますか分りませんが、その中のもし一台が狂っておったとしたらもう危険ですから、私共もいつもそうした意味での危険の中に身をさらしおるということですね。本当に大難を小難、小難を無難と勿論皆さん御神前に額ずかれ、願われる時にそんな事を願われるに違いございません。けれどもその事を本当に切実に願わなければおられません。
 例えば家にじっとしておっても、例えば私の方に子供が沢山おりますと、もうどの子が外へでております。もう本当に心配したらきりがないのですけれども、やはり用心はしなければなりません。または祈らなければおられません。そういういつも危険の中に身をさらしておる私達。もう本当にそう思いますもんね。道の端の方をよけてよけて通っておるんですけれども、もう本当に前からくるのはね、注意しておるのですよ。所が後ろからくる車には、ほうっとすれすれにですね、とおっていくのがありますよ。
 もう特に勿体島から椛目の間のあの辺なんかはもう私、後ろを見たり前を見たりしてからその、通らなければなりませんよ。もうひっきりなしとおっておりますから。ですからあの金光様を、私はあの金光様の信心を頂いておるから怪我をせん、そんな考え方は間違いだと思うですね。皆さんはあのいうなら、記憶には残っておりますでしょう。あのどこの方だったでしょうね、旗崎の教会に朝参りをしよって、あの道で殺されなさったという婦人がありますでしょう。
 朝のご祈念にお参りしておってですよ、それに殺されておる。眼もあてられませんですね。ですからいかに、神様参りだからといって安心は出来ません。けれどもそこに私は信心によって安心出来れる、信心しておれば大丈夫というじゃない、信心させて頂いておって、いつも神様と通うておる。いつも神様と私共との、間に一つの交流が交わされておると、交流しておるとそう言う様な、中にあってはじめて、安心がそれがそれこそ雨あられのように鉄砲の弾が来てもですよ。
 おかげが頂ければその中のひとりに、又は二人に残ることが出来るのですから。あるときに、私本当におかげを頂いておるということ、なんというですか、こうお徳の中にこうあるという事が有難いと思うた事はですね、あの当時北野の方で旗崎に参っておる方がありました。あれはあの写真屋さん何とかと申しましたね。山口さんの奥さんが始めは北野の教会に参られました。北野の教会の側ですから。どういう事であったか、知りませんけれども、旗崎教会でおかげを頂くという事じゃないでしょうか。
 まぁ旗崎に参って毎日参しよりなさるという事であった。ここにも暫く参ってこられるという事があった。そのかたがですね、丁度あぁいう事故があった前の日にもうそれこそ、久しぶりにここを訪ねみえられた。そしてその翌日でしたが、あの時の話をきかせて頂きますとね、その山口さんが通られた時ですね、あの犯人の人が自供をしております中にですね、あの人の前にひとり通ったちいうんですよ。
 それが山口さんなんです。ね。それをその呼び止めようと思うた時に何かちょっと、何かが何んとか記憶致しませんでしたが、何かその犯人のほうへ都合があって呼び止められなかった。だから、この次のというて待ち受けておってきた人があの、殺された人だった。もうそれこそ、もう間一髪山口さんはおかげを受けられたんですね。そのときに私神様からお知らせを頂いたことがですね、秋山さんあたりは、覚えておられるかも知れませんけれども、何かあの、例えば、そういう災難がかかってくる前にね。
 神様がここに引き寄せておいて徳をつけてやったと、言った様な事を頂いたです。ね、信心の徳を身に付けておかなければできません。そこのところの災難をよけさせて頂く為、だから本人は昨日椛目に参とったけんおかげを頂いたと思えなかったかもしれませんけれどもです、けれども、私そのことをいつもそのことを思わせて頂いてから、その事の方のためにお会いさせて頂いておったんですけれども、その後にその方は電柱とトラックとの間に挟まってから。
 あの体がびっちゃげてしまいなさったじゃろうかと、いうごたる大怪我をなされました。何年後に。ですから、神様の特別のおかげを受けるということの中に、そのそこんところの、おかげをおかげと気づかないということも、これはやっぱ御無礼になることがその都度に分かるですね。私共が日日平穏無事におかげを頂いておるということが、どのくらい、真剣な気持ちで今日もおかげを頂きまして本当に、平穏無事でおかげを頂きましたということにお礼を申さなければいけないかわかりませんですね。
 私どもはそうした危険の中に、いつも身をていしておるのだ。もうそげなこつ言うなら動きどんこんされん、そりけんちゅて、自分一人なら動かにゃ良かろうばってんからそんなわけにはいかん。ですから、やはりおかげを頂かねば出来るこっちゃないという信心を本気でさせて貰わなければおられないと言う様なです、ものがいよいよ育っていかなければならないと思うですね。そこで私は思のですけれどもね、いよいよ、これは私のひとつの流儀だといつも申しますけれども、自然との自然との交渉ですかね。
 成り行きというですか、この成り行きを本当に大事にさせて頂て、その成り行き自然の働きを自分の心にキャッチできれるだけの心のおかげを頂かなければいかんと思うですね。心は信心の定規じゃによってとこう仰る。心は信心の定規じゃによってと。信心をさせて頂くものは自分の心というものをです、いま自分の心の定規にあててみてです、磨いていないという事が、分からなければことには移られない。
 そんなものが必要ですね。いつも自分の心を定規で差し計ると言う様な気持ち。果たして、自分の心の中に金光様有難うございますと言う様な気持ちがあるか、また金光様におすがりする気持ちがあるか。いかに金光様にお参りしておるから、いかにそのいつでしたかね、善導寺の原さんがもう本当に、自転車にこうやってお参りになりますよね、自転車に乗り習いになったとこだったんじゃないでしょうか、はぁ有難い椛目にお参りする、はあ金光様有難い有難いと思いながらあの。
 土井からおてなさったち、そんなことがあった。どうしてあの金光様金光様言いながら落ちるじゃろうかて。金光様金光様いいながら落ちとる。けどもあんた金光様金光様言いながら落ちたからあげな高い所から落ちてもケガ一つしなかった。ね、だからそのそういうおかげも勿論そうですけれども、金様を唱えておったからというてです、私はその間違いはないかと言う事はない。問題は心は信心の定規じゃによってと仰るから、自分の心が信心の定規に当てはめて、間違いないかどうかという事をいつも確かめる。
 確かめておかなければならんというと、いつも計算しよらなならんようなものとないですね。例えば私が昨日、散歩がけにですね、昨日道が悪いというて、長靴を履いてまいりました。ですから洋服をかけてジャンバーのようなものを着てから、参ります。ね。ズボンをはかせてもらいジャンバーをはかせてもらい、その時例えばです、と靴下はどこにやったかと。まぁ靴下がその見つからなかったと致しましょうかね。
 そういう時には私は恐らく、上の道を通ったでしょうね。いわゆる危険の少ないところをとおったでしょうね。ところがすぐに靴下もあった、何もかもそろうた。はぁ今日はこれでこちらにいってもよいと言った様な風にですね、もう神様はもう例えば出掛けにですね、誰かが今日はあちらがいいですよと、教えてくれる人があったらその人が教えてくれたのではない、神様がそう指図してくださったという頂き方なんです。行こうと思いよるときにとにかく誰かが来た。行かれなくなった。
 ちょっとあんたまっとって私行って来るけんで、と言った様な事をいわずにです、神様が止めて居って下さったのだと、いわゆる自然の成り行きというか、自然が奏でるひとつのリズムにいつも乗っておかなければならないと言う事をいよいよ、大事にしなければいけませんね。これは縁起担ぐというのは違いますけれども、よく似ております。ね。ですから、もう神様は絶えず、私共のその神様の声を聞く訳には、中々参りませんけれどもです、神様がその、工夫して下さる様に、見せて下さるようにです。
 様々な私どもの周囲の中にですね、もう微妙なまでに神様の働きを頂いておる事を自分の心でキャッチしていかなくてはなりません。それが心は信心の定規じゃと仰るが自分の、心の中で信心がです、定規に当てはまるものでなければいけません。特に皆さん椛目にお参りをさせて頂いてです、自分が何かちょいとした我情の為にけそけそする。はぁもうご理解がなかけん、ご無礼するっちいうごたるときはいよいよですね、心の定規を発揮していかなければなりません。
 もう一番無難なことはです、はぁ今日は用事があったのにもう今日は何時までも先生がお話をなさる、時に腹決めなさいませ。あぁ今日はゆっくりしてもよいのだなぁという腹を決めなさい。それなら絶対間違いありません。ね。ところが人間には我情がある。はぁ今日は何時からどうせんならん、あぁせんならんという自分の思いがある。ね、だからそれをするときにはとりわけ、神様に御すがりする気持ちが必要です。そういうことを私は自然のひとつの調子というかね。
 リズムというか浪花節を語るでも、やっぱり(?)よいその、声が出せないと申します。ね。相方が大事。その相方をいつも、神様は努めて下さるのですよ。その相方を無視してしまってから自分の我情で動いておる時に必ず、やりそこないがあります。このへんはね、自分の身に付けるとね実に楽なんです。行こうと思いよったら急に腹がせき出したと。熱を出したと。ね、神様にお願いをさせて頂いて、ただ今からどこどこにやらせて頂きますと思いよりますのに、急にはらがせきだしました。
 お許しを頂きますものならば、どうぞ、おかげを頂きますようにと願へとお腹が例えばせきやんだ時には行っても良いというのである、せきやまん時には神様がチョット待てとこう仰っておられるといったような思い方なのです。ね、そこんところを私はこの自然のリズムに合わせて、昨日おとといでした。もう丁度、秋永先生達が4、5人きておりました。お夕食も準備も出来ていまから夕食という時分に伊万里の竹内先生が親でございます。子4人か、それとあちらでお導きをされた方6人でお参りをされました。
 6人だったですかね。それで私はそこで暫くお話して、とにかくあのお夕食してからお帰りなさいませと私は言う。ご飯を頂いてから帰りなさい。伊万里まで帰られるのですからね、佐賀の。いいえ今日はもう急ぎますけんご無礼致しますというて、帰りました。送り出したことは送り出したのですけれども、さあそれから、すぐお夕食御祈念、そして、御祈念終わってまた、誰かお取次ぎをさせて頂いておりましたから、11時頃でしたか、また、電話が掛かってまいりましたもん。
 竹内先生からでした。もう先生うっかりしておりましたち。私たちが帰りますときに、帰る時に先生から一言いわれた。お食事をしていけとか、またここ発ってからでした。このはなを私に見せてから竹内先生に言うのです。竹内先生この花はしょうじん花ですち。ご覧なさい、あのねじめがみんなすいでしてあります。あの白のカラーそれにお茶の葉。それに、白い(?)なんというですか、もう白づくめです。もうこれは自分でも不思議なくらいに精進花だと思うておったら。
 自動車、自動車事故ではない、飛行機事故が二件続けて起こったでしょう。富士山麓と、それからそん時ですね、天地の親神さまがですね、そう言う様な事を悲しみを表現してくださるのですよね。こういうことに、ね。此花はそういうような意味合いなんですよとというて、私はここを立たれる、みちみち自分は急いでおられるから、あぁそうですか、そうですかというてまぁ、いうていかれたけれども、さぁあちらにつかれてから、はっと、心に感じられる事が起こったのですよ。
 丁度11時でした。電話が掛かってまいりました。先生からあぁいわれましたけれども、ほんとに帰らせて頂きましたら、伊万里の町に入ってからでございます。一台の自動車がやってきた。道沿いに。なんとそれが酔っ払い運転じゃった。それが先生の自動車にぶっつけた。本当にあの時泊まれと仰るときに泊まっておったらということになってくるわけでしょうが。ね、勿論相手が酔っ払い運転でございましたからです。
 勿論取調べを受けるのは、先方だけで私のほうは、自動車にちょっと傷をうけただけですけれども、先方の(?)けれどもというけれども、さあ、こちらが調子に乗っておるときにリズムに乗っておったらその酔っ払い運転の向こうのほうの人も、無事であったかも違いないですもんね。丁度そこにこちらの車に行き合わせたということが、ですから信心がなかってもよく申しましょうが。ハア丁度お茶一服していきなさいというて、ね、それで、災難をやはり、逃れると言った様な場合もあぁります。
 ような意味の事をです、私は信心をさせて頂く者は特に、自分の心の中に皆さん縁起を担ぐというそれとは違うのですよ。自分の心の中に絶えず神様を頂いていく、心は信心の定規じゃと仰るから、絶えず自分の心の中に定規を押し当てておるような気持ちが、信心生活だと。ね。心が乱れておったり、ただ我情我欲のための例えばそれが、いうちゃすまんですけれどもね、お参りであったと言う様な、例えばその旗崎のご信者さんが、殺されなさったときもです、あれはもう、本当に、全教的に響きましたですよ。
 あの事は。もう全教的に朝参りが一時少なくなったと言われた位でした。本当にですから一人のそう言う様な事がです、沢山の事に響いて参りますんです。一人がおかげを受けるために千人も万人も、おかげを受けるようになるということ、と反対にひとりがおかげを落としたらです、千人も万人のものがまたおかげを落とす事になるのですから。自分一人の信心がです、ただ我情我欲のためではない、いわゆる心は信心の定規じゃによってと仰るように、ね。
 自分の心というものが、まず神様の方へむいてそれが、ぴったりとあってしかも調子にのっておるか、リズムに乗って居るか、調子とはずれてはいないかと。ね。調子が外れておったらですね、動きができないと言う位な気持ちが必要です。浪花節さんたちが調子が狂いますと相方のほうに、こう指図を致しますですね。調子が狂っておるぞと、あっていないぞ、これでは語られないぞと、また語られないです。所が素人ほどに調子が乱れておろうが狂うておろうがです、もう平気で例えばうなりますですね。
 例えばその三味線の(?)ない人たちなんかが、あの端唄やら演会なんかで歌いますよ。もう、芸者さんがこうひきよなんなさっとに、もう反対じゃろうがもう自分が歌いさえすればよか。ところが少しなら三味線にあわせつけた人というですか、三味線のひとつでも弾く人でしたらぴっしゃっと三味線合わなければ歌わん。もう三味線の調子が外れとったらそれはあんたニ上がっとるばい、三上がっとるばいというて、こちらから注意してやりたいごとある。そんなもんです。
 信心といわゆる、私どもと神様との間の調子というものがです、もし違っておったら動かれん。前には進まれんという位な気持ちがです、おかげを頂く為にはやはり、体得すると後は楽です。ね。私は最近思います。確かに私共は日々障子一重が確かにままらなるこの身でございます。そうした危険の中にさらされておる私達。ね。これでよいという安心はできない。けれども絶えず私共のその、生き方というものがです、ね、神様との間の交流というか、一つその調子というものを。
 自分の心の中に頂くと言う様な事ができて、心の信心の定規にいつも押し当てておかげを頂いておりますとです、神様の声が聞こえてくる。神様の姿が見えてくる。ね。神様が右だ左だというておって下さっておることがです、ね、それこそ流行歌の文句の中からでも感じる事ができれる。ね。自分の周囲にいつも神様の働きを感じられるところまで、信心を進めていかなければいけません。神様に参るのだからというてゆめ安心はできません。自分の心が調子から外れておったんでは。
 本当の良いおかげの頂けれるということはありません。同時にただ今申しますように、竹内先生のその話じゃないですけれども、あの時先生がお食事をしていけと仰ったから、いわばまあいうなら素直にね、素直に先生があぁおっしゃるけん頂いて頂こうかと、というてちょっとゆっくりしておられたら。例えばそうした事故に遭わなくて済む様なおかげが受けられる。
 そういう意味合いのまあおきづけであったのですけれども、お互いここんところを一つ、特に心しなければいけません。今日一日です、そういうふうに思いつづけることも信心の稽古です。はあ、今日は行ってもよかつばいのと、今日は動こうと思いよったら、神様が動くなと言わんばかりのことを目の前に見せてくださったと、今日はこのままちょっと慎重にしておこうと言った様なです、生き方それはとっても楽しいものです。
   どうぞ。